院生のための算数入門(4) 線形性(補遺)

[mixi 2007-6-14]

線形性が有力な概念なのは,局所的に線形化して,あとでつなげられるから,というのがひとつの答えだが,それ以外にもある.

まず,いっけん非線形に見えるにもかかわらず,実はそれは変数の一部だけを見ている,あるいは,状態の表現が「圧縮」されているからで,より広い空間のもとで考えれば線形だ,という場合がある.

典型的なのは量子力学古典力学の関係で,量子力学は線形なのに,古典力学非線形である.これは量子論で考えている状態の空間が古典力学のそれよりはるかに大きいということに関連している.現代物理学の考え方では,本来,物理現象は量子力学で記述されるべきで,古典力学はその近似というか,ある条件のもとで成り立つ変数の縮約なのである.

このことは,非線形の物理現象,たとえばカオスが古典力学という近似のためにあらわれた人為的なものではないか,という疑問をまねくかもしれない.これは量子カオスという分野の中心的な研究課題であり,現在も未解決といってよい.

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上のことを逆に使えば,非線形の関係でも,人為的に次元をあげれば線形になるのではないか,ということになる.パターン認識機械学習の分野でさかんに使われているサポートベクターマシンSVM)とか,一般に再生カーネルを使う方法(カーネル法)のひとつの解釈はそれである.そこでは,SVMに限らず,あらゆる線形の多変量解析の手法が,仮想的な高次元空間と“カーネルトリック”によって非線形化される.

ただし,カーネル法では「高次元空間を考えてみると線形で表現できた」のに対し,物理では「真実は高次元空間の線形のプロセスであった」というわけで,その含意は同じでない.「表現」を追求する統計科学と「実在」を追求する物理科学の違いがそこにある.

「真実」の発見はしばしば「正しい表現」の発見であるが,統計科学では何が正しいということよりも,表現のレパートリーを増やすことに意味がある.

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最後にいうべきなのは,「近代」において,「線形性」とは,社会的,規範的に作られたものでもある,ということである.

たとえば,工場の製造ラインで,複数の要素が相互作用するとき,それらを分析するよりは,それが独立になるようにライン自体を組み替えてしまいなさい,というのがタグチメソッドの田口先生(中大教授のほうじゃないですよ)の言葉である.

ここで,独立というのは,数式でいえば効果や歩留まりが各因子の積になるということだと思うが,対数をとった量で考えれば和で,つまり線形ということである.

情報関係ではスケーラビリティということをいう.設備を100倍にしたら能力も100倍になることは望ましいことであるが,これはまさに線形性といえよう.ソフトの生産などは非線形の典型であって,人数を2倍にしたら2倍の速度で完成するというものではないが,それをできるだけ線形にしたくて,オブジェクト指向とか,「なんとか技法」とかをやるわけである.

余談だが,スケーラビリティという意味で素晴らしいのは,ジムでやるベンチプレスで,腕立てができないほど力の無い人から,ムキムキの人まで,同じ設備でトレーニングできる.腕立て伏せは近代の所産ではないから,スケーラビリティがなく,ある範囲の人しか効率的に鍛えられない.

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「近代」が人々に線形性を強制し,それを当然のものと思い込むように仕向けてきたということは,それなりにもっともらしい解釈である.「算数」による精神の支配というわけだ.

一方で,さざなみの線形性やマクスウェル方程式の線形性を近代のドグマによる社会的所産だといえば,物理科学を学んだ人の怒りを買うかもしれない.

マクスウェル方程式とか電子とかが,「発見」されたのではなく,人間によって「発明」されたのだ・・というような議論はもちろん可能ではあるけれど,その前に,上の2つにかなりの違いがあるということは知っておくべきだろう.

ポストモダンの人とそれを否定する物理学者の議論,というのが少し前にあったが,前提条件として,社会科学的な世界像と物理科学の世界像の両方をよく知っておくことが必要だろう.これらの論争がしばしば不毛なのは,両方の世界を心に沁みるまで考えることなく話をしているからであり,つまり教養がないからだと思う.