物理学と神秘 (その2)

[mixi 2009-03-02]

必要なことは(その1)で大体書いたが、「26次元の何とか」についてもう少し付け加える。この分野についての私の知識はかなり怪しいので、あまり期待しないように。

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まず、「26次元(あるいは24次元、10次元)の神秘」という場合に、次の2種類を区別する必要がある。このふたつは全く違ったことである。

(1) 3次元の空間(4次元の時空間)を超えた世界があるのが神秘的だ。

(2) 「25でも23でもなく26が特別」なことが神秘的だ。


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(1)のほうには「同情の余地」があまりない。

以前にも書いたことがあるが、「4次元の謎」の類は、19世紀に数学的な高次元空間(いまや誰でも計算に使っているもの)が定義されたときから、ずっといわれ続けている。いわば、贋科学の定番ものである。

確かに弦理論では26次元とか10次元というのが出てくる。しかし、通常の解釈では、4次元との差の部分の次元は素粒子サイズに円や球のように閉じていて、日常はもちろん、われわれに可能な物理実験では、その部分が「空間」として見えてくることはないとされている。したがって、それは日常の生活にも人生にも直接には関係ないのである。

もっとも、ごく最近になって、1次元か2次元分の「軸」が、たとえば数cmとか数mというようなスケールで残っているのではないか、という説が出た。CERNの新加速器で微小ブラックホールが生成可能かもしれない、という話もこうした「過剰次元」の存在が前提になっている。

もしそんな説が本当なら「4次元の神秘」が実在することになりそうにである。しかし、実は、余計な次元にアクセスできるのは4つの種類の力のうちで重力相互作用だけだ、という点がポイントなのである。

われわれが、たとえば、手で物を動かしたり、食べ物を分解して代謝したりするのは、大部分が電磁相互作用がもとになっている。したがって、過剰次元の効果が明らかになるような事象を日常のレベルで見つけるのはおそらく簡単ではないだろう。逆にいえば、日常生活や人生に関係するくらいなら、とっくに他のもっと精密な実験で異常が検出されるはずだということである。

ペンローズの脳理論」のような、それ自体が贋科学ぎりぎりの説と組み合わせでもしないと、過剰次元からは神秘は出てこないように思われる。

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(2)についていえば、ある意味で、これは本当の神秘である。

26,24,10と並べたが、これは別々ではなくて、26次元のうち有効な次元が24次元、またフェルミオンを考えると10次元になる、とかいうような話だったと思う (その辺はご勘弁を・・)。

基本は24と思われるので以下は24で話をするが、23でも25でもだめで、24じゃないといけない、というのはまことに不思議なことである。

その不思議さを理解するには、物理学の歴史を考えてみるとよい。

古代においては、プラトンの正多面体やピタゴラスの多角数など、宇宙の基礎に神秘の数字があるという思考が普通であった。正多面体が、4,6,8,12,20の5通りしかないことは、今日にいたるまで人々の興味を惹いている。

近代のはじめになっても、ヨハネス・ケプラーは、ケプラーの3法則を通じてニュートン力学の礎を作りながら、一方では今日では省みられることのない正多面体モデルの宇宙論を展開している。

ところが、近代物理学のはじまりであるニュートンの力学になると、その枠組みからは、「魔法の数」のようなものはすっかり取り除かれてしまった。ケプラーの法則の力学的説明のもたらした「天の理と地の理はひとつ」という世界観が、「美しい魔法の数の支配する天と混沌とした地」という中世的な世界観にとって代わったのである。

そこから、歴史はゆっくりと逆転をはじめる。まず、量子力学になると、主として波の性質から、離散的な量子数とか、原子核での「魔法数」のように、「特別な整数」があらわれてくる。しかし、この段階では、理論の枠組み自体には特別な数字はなく、それらはあくまで個々の系やモデルに依存して出てくるのであった。

次に現れたのがゲージ原理であって、ここではじめて「素粒子の間の力」と対称性による「素粒子の分類」が一体不可分のものとなった。さらに、くりこみ可能性の要求は、「力」が何でもよいのではなく、高度の対称性を(潜在的に)もつときにだけ、理論の枠組みが整合的であることを示した。

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その先にあるのが「23次元でも25次元でもだめで、24次元でなくてはならぬ」という世界である。われわれは古代の魔術的世界を呼び出してしまったのだ!

「天の理と地の理の合一」はどうなったのか。中世の「天」と「地」にとってかわったものは、現象を支配するエネルギーの大きさであり、(量子力学と相対論によれは実は同じことなのであるが)距離と時間のスケールである。

人間の計り知れないような短い距離・極微の時間・巨大なエネルギーの領域では、原初の対称性が蘇り「天の理」が支配する。われわれ生き物のスケールでは、それらはまったく見えなくなる(#)。

古代人とわれわれの最大の違いは、われわれは、われわれの発見したことが、日常や人生に関係がないことを知っていることだろう。

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「24次元の神秘」はそれ自体は数学的事実なので、弦理論とのかかわりはその一部であって、数学の内部や他の数理科学へも広大な広がりを持っているらしい。

たとえば、このあたりのページ
http://www.geocities.jp/ikuro_kotaro/koramu/236_kyu2.htm
になにやら出ている(これは勉強用のメモみたいな感じだが)。

私には、弦理論と同様に、あるいはそれ以上にわからない世界であるが、この世界のひとつの中心はデデキントのエータ関数と呼ばれる謎の式らしい。そこには1/24という数字が出てくるが、これは1/22でも1/23でもいけないのだ。 
http://mathworld.wolfram.com/DedekindEtaFunction.html

また、一番有名なのは24次元空間(あるいは24ビットの2進列の空間)に球を充填するとき、23次元でも25次元でもできないような「完全無欠」の詰め方ができるという事実のようである。

いつかこのあたりを理解したいと思っているのだが、数学者でない人間にとってはなかなかしんどい。

しかし、これらにしても、現在までひとつの例外を除いては、われわれの役には立っていない。そのひとつというのは、24次元の充填と関連した誤り訂正符号でGoley codeと呼ばれるものである(同じ名前のlow autocorrelation codeとは別物)。これは他の方法と組み合わせてVoyager探査機からの送信に使われて有名になった。

Goley codeは3ビットまでの誤りの訂正については理想的な性質を持っている。しかし、4ビットや5ビットの訂正について同様の性質を保ったまま一般化することはできない。美しさと神秘は、それ自体が現実の世の中での限界でもあるわけである(##)。

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(2)は確かに神秘ではある。しかし、言ってみれば、

「われわれは神を作り出した。 

 しかし神はわれわれに気付きもしなかった」

ということになるのではないかと思う。(###)

グレッグ・イーガンばりに言えば、われわれが見出した世界の不思議さは、世界がわれわれのことを気遣ってくれる筈だ、というような感傷を許さないようなもののように思えるのだ。

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南部陽一郎がはじめて素粒子の世界に導入した「自発的な対称性の破れ」という概念は、そこに関係しており、それが(他の業績とともに)ノーベル賞の対象になったのである。 ちなみに、噂だと、南部先生は時に神秘主義的で、超能力と第6の力の関係うんたら、というようなことを漏らされることがあると聞いた。本稿(特にその1)の趣旨とは矛盾するが、たまたま思い出したので、公平のために記しておく。

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むしろ、真の符号理論の革命は、もっと単純で乱暴な手法であるターボ符号やLDPC符号によってもたらされた。それらの発想もある意味では美しいが、その美しさはまったく別種のものである。

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Goley codeは、とりあえず神様に隣町のスーパーまでお使いに行って貰うことができた、といったところか。