真贋

[mixi 2006-10-01 再掲時タイトル変更と補筆・区切り・強調]

小林秀雄という人のものはほとんど読んだことがない.

高校の教科書にエッセイが載っていて,それを読んで間違っていると思ったので,長いこと避けていたのである.エッセイの内容は,論理でなく説得が重要だ,というものだったが,高校生の私は「この人は理論と論理をごっちゃにしている」と思った.更に,論理は重要ではないが理論は重要だ,とも思ったが,いま背景まで考えると逆のほうを言うべきだったのかもしれない.ともかく,理性を軽んずるような論調が気にいらなかった.

大人になってから,同じようなイメージを持っている人や本に何回か出会った.ことに烈しかったのは,大嶋仁という人の書いた「ユダヤ人の思考法」(ちくま新書,1999)という本である.タイトルから想像されるようなトンデモ系ではないが,別の意味で変わった本である.大嶋氏はもともと小林秀雄のファンだったのが,フランスに留学して勉強しているうちに,あたまが論理的になって,突然内容が理解できなくなったという.これだけでも結構面白いが,さらに,なんとか理解しようと努力した結果,小林の思考はレヴィ・ストロースのいう「野生の思考」(pensee sauvage)だという結論に達し,それで修論を書いたのだそうだ.そのあとも,和洋の2項対立の第3項としての南米ラテン思考とか,話はまだ続くのであるが,とりあえず関係ないのでやめる.

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その後もしばらく,小林には縁が無かったのだが,お友達の青山二郎(これは本当に変な人である)のことを読んだのがきっかけで,「真贋」というエッセイに出合った.これは実に秀逸で滑稽な作品で,文句なしに一流といってよい.話は陶器の真贋に関するもので,結構長いが,コアな部分は,自分がほれ込んで衝動買いした呉須赤絵の大皿を青山に贋物だと断定され,眠れなくなる,というところである.

青山はひどい人なので,例によって滅茶苦茶にいうのであるが,眠れないのはそのためではなくて,自分の感動をどう始末してよいかわからなくなったせいである.夜中に起きては電灯を点けるが,やっぱりまだ美しい.

とうとう翌日,皿を抱えて馴染みの骨董屋まで電車を乗り継いでいくが,途中でまたしみじみ眺めて「もう皿が悪いとは即ち俺が悪いことであり,中間的問題は一切ない」と決める.この「中間的問題」というのが最高にいい.結局,皿は本物で,小林は骨董をやめないで済むが,気抜けしてしまい,そのまま皿を手放してしまうのである.

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これほどの滑稽を書ける人を偉い批評家にしておくのは,惜しい.レトリックというものは,自分を食べてしまってはじめて意味を持つのである.小林のエッセイに,壷が壷の形をしているのは必然であって,他の形は考えられない,それほどあの形はいい,というのが随分上手に書いてあるのがあるが,これなど本気で言っているとは思えない.

われわれが物をみるとき,普段見慣れている形を必然と思うのは当然で,その分を割り引く必要があるが,どの位割り引いたらいいのかまずわからないから,少しでも教養のある人はそういうことは言わない.うっかり言えば,フランス語の良いところは人間がものを考える順番に単語が並んでいるところだ,という発言で不朽の名を歴史に残したフランスの軍人さんのようになってしまう.

むろん小林はそれを承知で書いているのだろうが,どんなに上手に書いても,結局はそのことを肯定する論旨なのだから,どうにもならない.ばかな主張をしている自分を徹底して見つめれば,滑稽に行かざるおえない.なんだかさっぱりわからぬところに到って,はじめて意味がある.宮沢章夫の書名に「茫然とする技術」というのがあるが,滑稽というのはそういうものだ.

世が世なら「ボートの三人男」のようなユーモア小説の傑作を書けたかもしれない人が批評家などをやっているのは,まともな批評家がいなくて,ニッチを埋める必要があったからだろう.忍者小説の名手の司馬遼太郎を歴史家にしてしまうのと同断である.これもまた「この国に生まれたるの不幸」だろうか.