院生のための算数入門(6) 保存則

[mixi 2007-06-23]
[以前ここに掲載したものは,これを簡略化してあとで別に書いたもの]

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受験の算数には「なんとか算」という名前のついたものが沢山ある.それらでは,未知数を含んだ方程式を立てずに,等価な計算をやることが必要らしい.そこで,大人は「xとかyとか使わせてくれれば〜」と,微妙に優越感を漂わせつつ,嘆いてみせるのである.しかし,方程式を使うと話が簡単になるのは何故か,というところまで踏み込んで考える人はあまりいない.

実は,その大きな理由は,これらの問題が「解ける根拠」には,しばしば「保存則」が隠れていて,方程式を使えば,保存則を書き下すと,あとは形式的な操作で答が求まるからである.

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たとえば「天秤算」と呼ばれる種類の問題がある.

5パーセントの食塩水と10パーセントの食塩水を混ぜ合わせて、8パーセントの食塩水を作りたい。5%と10%の食塩水を混ぜ合わせる比を求めよ

この問題が「解ける根拠」は「食塩の重さは混ぜても変わらない」「全体の重さは混ぜても変わらない」という2つの保存則にある.どちらも「質量の保存則」という物理法則の例である.

ここでたとえば「体積の保存則」は成立しないことに注意しよう(水と砂糖でも,水とアルコールでも溶かしたあとの体積は溶かす前の体積の和にはならない).なんでも保存するというわけではない.

混ぜる前の溶液の重さをそれぞれxとy,混ぜたあとをzとすると,2つの保存則は

(5/100) x + (10/100) y = (8/100) z
x + y = z

と書けるので,もとめる比率をt=x/z s=y/zとおけば,

5t+10s=8
t+s=1

となり,t=2/5, s=3/5から2:3という答が求まる.

「受験の算数」の範囲でこれをどのように考えるのがよいか,というのは,ここの関心の外だが,「2つの保存則を使った」ということがなるべく明らかなやり方がよく,場当たり的な公式や比喩による方法は(科学教育という意味では)よくないということはいえると思う.

「植木算」→ 注1

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いまの場合,不明な要素が3つ,比率にすれば2つであり,数式も2つなので,うまく解くことができた.もし使える保存則の数が未知数より少なければ答えは一意に定まらないし,多ければ答が無いこともある.

しかし,ここで注意すべきなのは,形式的な式の数でなく,実効的な式の数を数えなければいけないということである.たとえば,上の例で,「食塩の重さは混ぜても変わらない」「全体の重さは混ぜても変わらない」のほかに「水の重さは混ぜても変わらない」を考えても,これは前の2つと独立な条件とはいえないだろう.

「独立な式の数」という概念はとても大事なものである.天秤算のような未知数について1次の式の場合について,これを論じるのが「線形独立」(一次独立),「線形空間の次元」という考え方で,これと「直線」や「平面」などの高次元の対応物という幾何学的なイメージを結びつけて学ぶのが,大学教養で学ぶ「線形代数」(線形数学)の中心的課題になる.→注2

保存則にはもちろん未知数について1次でないもの(線形でないもの)もある.たとえば,エネルギー保存則は速度の2次関数,位置についてはもっと一般の形になる.それらについても同様の議論をするには,微積分を多変数に拡張して,線形代数と組み合わせることになる.こうして生まれるのが「陰関数定理」で,このあたりになると,小学校の算数から続く「学校の数学」もその頂点に近づいてくる.

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大学教養までの「学校の数学」では,未知数に比べて独立な式が少ない場合には解は一意に定まらない,でおしまいである.

しかし,おとなの世界ではそうはいかない.独立な式が足りない場合,足りているようにみえても,係数を少し変えたときの解の安定性が悪くて自信をもってこれが解だといえない場合,そんなことはしょっちゅうある.そうした問題を非適切逆問題といい,その解を定義しようという試みは正則化と呼ばれる.

この場合,方程式の解についての事前知識の表現が重要であり,そこから,罰金付きの最尤法,ベイズ推定,カーネル法といった現代的な統計科学の世界との関連が開けてくる.

「学校の数学」では,保存則,より一般には拘束条件を方程式で表現すれば,あとは自動的に答が求まるというのが,「未知数を文字であらわす」ことの威力であった.「大人の世界」でその役割を演じるのが,たとえばベイズの定理や計算統計の諸手法であるともいえるだろう.

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少し話が広がりすぎてしまったが,保存則の話にもどる.

物理科学の世界では,保存則が物事の理解の中心であり,問題が解ける根拠である,という考え方は見事に成功した.

たとえば,上で述べた質量の保存則とか,電気回路におけるキルヒホフの法則とかはそのよい例である.

これらのあるものは「宇宙の基本法則」であり,別のものは,特定の条件のもとで成り立つ近似式であるが,そのような違いはあまり重要でない.ひとつの保存則が,無数の場当たり的な「公式」や「解法」を包含してしまう,というところが偉いのである.

「算数」の範囲を越えてしまうが,物理科学において重要なのは,もうひとつの「問題が解ける根拠」である「対称性」(ある操作についての不変性)と保存則が深く結びついていることである.

解析力学量子力学を習っていない人は驚くかもしれないが,空間方向に全体が一緒に移動したときの対称性は運動量保存則,回転対称性は角運動量保存則,時間の原点の移動に関する対称性はエネルギー保存則と関係付けられることになる.

こうして,対称性・不変性に基づく世界観と保存則に基づく世界観は,互いに結びついて,物理科学の世界では完成の域に達したといってよい.

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では,それ以外の世界ではどうか.人工知能を保存則に基づいて作ることが可能だろうか.

じつは,認知科学における,ギブソンの「不変項」,マーの「計算理論」という考え方は,保存則至上主義と深くかかわっている.「不変項」は名前のとおり,素直に受け取れば,ほとんど「保存則」そのものである.「計算理論」のほうは,情報科学の「計算量理論」とは違って,「問題が解ける根拠」というような意味で,具体的には,保存則や対称性,幾何学的な定理などを意味することが多い.

しかし,これらの概念は,物理科学ですでに描像が確立された領域の外では,思ったようには機能しないようにみえる.たとえば,嗅覚の不変項,というのは一見興味深い概念のように思えるが,実際の探求で有用かどうかは疑問である.言語的世界の研究では,なおさらのように思える.また,これまでに「計算理論」の概念にもとづく研究が一定の成功をおさめたのは,視覚研究と運動研究の一部だけである.

そこに「近代」の限界を感じる人もいるかと思うが,それは同時に「算数」の世界の限界でもあるのではないだろうか.

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注1
植木算というのもある.

○=○=○=○=○

=の数を与えて○の数を求める

これは一見「保存則」と無関係に思えるが,無理やり考えれば


○ =○
○ =○ =○
○ =○ =○ =○

という「成長プロセス」で○の数と=の数の数の差が保存している,と考えることもできる.円形に並べる場合には,途中に入れ込んでいく過程を考えればよいだろう.

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注2
もちろん,線形代数や後出の陰関数定理は保存則とだけ結びついているわけでなく,もっと汎用のものなので,その意味ではこの説明は誤解を招くかもしれないが,ひとつの見方としてはこういう流れでの導入もあるのではないかと思って書いてみた.